Column 290
2024/11/19 18:00
前回のコラムで「モナ・リザ」を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチの話をしました。今回は、日本のダ・ヴィンチとよばれた小堀遠州(小堀政一)のお話です1)。
小堀遠州は近江国出身で、徳川将軍家の茶道指南役を担った人物です。父は北近江を治めた大名・浅井長政に仕えていましたが、浅井家滅亡後は豊臣秀長に仕え、家老として郡山城に移ったとされています。
秀長が師事していた縁から、遠州は幸運にも10歳にして利休の手前を見る機会を得ています。利休亡き後は、その弟子である古田織部(ふるた おりべ)に師事。戦国時代に花開いた茶道の本流を受け継ぎました。
遠州と名乗るきっかけとなったのは、駿府城の作事奉行(城の建設を行う役人)をつとめたことでした。諸太夫従五位下遠江守という位を拝したことに由来しています。その他、桂離宮、仙洞御所、二条城、南禅寺金地院、名古屋城など多くの建築・造園を手がけました。特に庭づくりにおいては、大胆な樹木の刈り込みや花壇の設置、芝生を敷くといった西洋風の工夫もみられ、異文化の吸収にも貪欲であった様子がうかがえます。
遠州は、生涯に400回あまりの茶会を開きました。大名・公家・旗本・町人など、さまざまな人物を招いたと言われ、延べ人数は2000人に及んだとされます。書画や和歌といった王朝文化についての知識に富んでおり、後世において「綺麗さび」とよばれるようになる幽玄・有心の茶道を創り上げました。また、陶芸に関する見識も高く、遠州に認められた品質を表す「遠州七窯」というジャンルが生まれるほどの目利きでもあったようです。
このようにマルチな才能を発揮した小堀遠州は、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとよばれるにふさわしい人物といえるでしょう。
引用・参考文献
1)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%94%BF%E4%B8%80
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