Column 291
2024/11/26 18:00
前回のコラムで日本のダ・ヴィンチとよばれた茶人・小堀遠州のお話をしました。小堀遠州の師匠である古田織部(ふるた おりべ)を育て、茶道の本流を託したのが、かの有名な千利休です。
千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人ですが、わび茶の完成者で「茶聖」とよばれました。わび茶というのは茶の湯の一様式で、煌びやかで豪華な茶の湯に対して、草庵の茶として安土桃山時代に流行したものです。その特徴は、簡素簡略の境地、すなわち「わび」の精神を重んじていることにあります2)。
利休は、高価な中国製の道具である「唐物」を用いずに、あえて国産の「わびた(粗末な)」道具を積極的にデザインし、職人に作らせて使用しました。また、輸入品であっても産地では雑器扱いの大量生産品を使用したり、自身で竹を切って作った簡易な道具を用いたとも言われています。
わびの精神は茶を飲む空間にも革新をもたらしました。書院造りの建物から茶室を独立させて、小間の茶室すなわち草庵を生み出したのです。
そんな利休も、乱世の荒波へと巻き込まれていきます。拠点である堺の町が、織田信長の直轄地になったことから、彼の茶堂(主君に代わり茶会を開く係)として召し抱えられました。
本能寺の変および山崎の戦いのあとは豊臣秀吉に仕えることになります。秀吉の九州遠征に同行した際に、松の枝に鎖をかけて茶の湯を沸かした「釜掛けの松」が現在の九州大学病院構内に残っています。しかし、その秀吉から切腹を命じられ、利休は70年の生涯を閉じます。切腹の理由には諸説あり、いまだに明らかになっていません。
利休の死後、子孫はそれぞれ独立した流派に分かれ、表千家、裏千家、武者小路千家となりました。これらの流派は三千家とよばれます。
今年、2024年は利休生誕502年にあたります。利休がペットボトルのお茶が主流となった現代を見たら、どう思うことでしょうか。
引用・参考文献
1)https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
2)https://ja.wikipedia.org/wiki/わび茶
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